リサイタル終了 その3 愛

西宮のコンサートで無事に弾き通せたことに 少し安心しましたが、それでも、トラウマが大きく、まだ完全に安心はしていませんでした。

そのころ、恩師からお手紙をいただきました。
「音楽に委ねなさい、作ろうとせず、演出しないこと」
と書かれていました。
技を磨いて練習していくとき、10回弾いても10回、全く同じようにはなりません。
しかし、こういう風に・・という方向性は決まってきます。
音を確実に弾く作業も反復練習で確かなものにしていきます。
しかし、そればかりをやりすぎると、「音楽で語る(弾く)喜び」が摩耗していきます。
俳優になった気分である感情を表現して、同じセリフを何万回も続け様に言ったらどうなるでしょう。何もなくなります。音(オン)だけが発せられても意味がない。
ですから、音楽も練習はやりすぎてはいけないと思います。
しかし、真面目な性格であればあるほど、満足できないのは何かが足りないからだ、とまた練習に舞い戻ってしまうこともあります。
そうやってドツボにはまり、疲れ果て、どうにもならなくなったと感じた矢先、ふとテンポのことが気になって、昔の恩師のレッスンテープを確認してみることにしました。
聞き始めた途端に、そこに「音楽への愛」が満ちあふれていることに、そしてそれを私が見失っていたことに気付きました。
一番、根底になくてはならないものは、その作品、もっと大きく言えば、音楽への愛です。
瞬時に私はそれを再認識して、愛を取り戻しました。
その先生から、またメッセージを受け取りました。
「愛こそが音楽を完全なものにする」と。
愛に満たされている時、恐怖は襲ってきません。
緊張はありますが、自分を厳しく裁かなくなりました。
ミスをしないようにとか、完全に弾きたい、という気持ちはなくもないですが、「未来」というまだ来ていない時間をそのようにコントロールすることは不可能なのです。
ですから、その音楽の流れに任せてその時に生まれでるように弾くのです。
舞台で弾きながら、思った事があります。
「私は裸ん坊」という気持ち。
言葉のとおり、隠したって全部持っているもの、持っていないもの、見えちゃってるよ、という感覚。
そしてこうならなければ!と固くなって踏ん張るのではなく、こうなってもああなってもいいかぁ・・みたいに「しなる」ことが強さなんじゃないかなということ。
行き当たりばったりがいいということではないです。
でも、もし、愛が根底にあれば、(音楽が心から出ていれば)別に音を少々間違えようが、どうなろうが気にならないし、それで構わないのです。
完全に音を間違えずに弾いてもそこに愛がなければ全く人の心に訴える事はないでしょう。
音楽は時間の芸術ではあるけれど、最近ものすごく波動で受け止めるようになってきました。
人と会って、話をそうしないうちにこの人、こういう感じの人なんじゃないかなっと感じるのと似て、弾き始めた途端、あるいはどこかしら2、3秒聴いただけでも、その全体がどういうものかどうかわかるのです。
その人と音楽(楽器?)との関わり方がすぐにわかります。
今回あれ?っと思った変化がありました。
もしかしたら一時的なことかもしれませんが、私は普段電話ぎらいで、かかってくるのは構わないのですが、自分からかけるのは本当に苦手でした。
しかし、そういう気持ちがパッタリ無くなり、きのうは何人かの方にお電話をかけたりしていました。
電話しなきゃ・・が、電話してみよう、となっていたわけです。
ホールのドアマンさんのお顔もしっかり見ました。
これまで、目を伏せていく事の方が多かったようにも思いますが、前は余裕がなかったのでしょうね、今回はしっかりお目目を合わせていましたね。
そういえば、前日に泊まっていたホテルのフロントのお兄さんもいい感じの方でした。
目を合わせて、そんな自分に自分であらら?と思いました。
リハーサルの時もあらら?と思ったのは、私は一人きりのリハーサルって以前はとても好きでした。しかし、今回リハーサルの時、そこに居合わせた人に向かって弾いている、人を対象にして弾いている自分がいました。
そして誰もいなくなった時に、あら、音を届ける人がいなくなっちゃった・・と思いました。
不思議です。
生きるステージは変化し続けます。
自分が変わると回りにいる人も変わります。
変わらずにずっとそばにいてくれる人もいます。
これからもご縁のある方に素晴らしい作曲家の作品をお届けしていきたいと思います。

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